僕にはブレないパーパスがある
近年、企業のビジョンや経営理念を見直す上で、パーパス(purpose)という言葉が多く使われるようになっている。企業に社会貢献が求められるにようになった結果、その会社が存在する目的や意図を改めて定義し、ミッションやビジョンに一貫性を保つことでより良い経営の意思決定をしていこう、というムーブメントが「パーパス経営」だと認識している。
このパーパスという言葉は個人を対象に使われることもあって、その人の存在意義や人生の目的を意味する。実際、一部の企業では会社のパーパスと社員個人個人のパーパスの繋がりをリンクさせることで、より企業カルチャーを強固にしようという動きがある(日本経済新聞: パーパス、ESG経営の鍵に 持続的成長へ動機づけ強く)
で、まず前提として、僕は全ての人が明確なパーパスを持っているべきだとは思わない。
人生への向き合い方は人それぞれで、特に熟慮すること無くその場しのぎで生きていくのだって構わないし、短期的な目標は持っていても長期的にはなるようになれと思っている人だっている。もちろん強い意志で存在意義を持ち続けたって良いし、その存在意義を見直して変えたって良い。
自分の人生なんだから、自分の意思決定の上で好きにしたら良いのだ。
その上で。僕にはブレないパーパスがある。「昨日の自分に勝つ」だ。
5年後になりたい自分も、10年後にやりたいこともない。なりたい誰かもいなければ目指すキャリアもない。社会をより良い方向へ変えたり誰かの役に立ちたいという気持ちはあるけれど、それは人生における行動指針であって、僕自身の存在意義では無い。
僕の存在意義はただただ自分自身の成長だ。新しい知識を身につけたい、出来ないことが出来るようになりたい、1秒でも早く走りたい、1kgでも重いバーベル持ち上げたい、少しずつで良いから昨日の自分に勝ち続けたい。
ちょっと話がズレるんだけど、僕は僕自身の人生に対しては強い想いもあるし、誰かに依存したり委ねたりすることなく全てを主体的に決断して生きていきたいと思っている反面、自分以外の人間の人生に対しては正直大して興味がない。いや、アドバイスを求められれば答えるし、心配したりサポートしたりはもちろんする。助けを求められればいくらだって助ける。でもその人の人生に対してはどんなに頑張ったって僕は何一つ責任が取れないので、決断してあげることは出来ない。結局その人の人生のオールはその人にしか握れないのだ。
だから、僕のパーパスに他人や社会が入り込む余地は無い。僕の人生は僕のためにあり僕しか決断が出来ないけれど、僕が他人の人生を直接的に変えることは出来ないからだ。このパーパスを追い求めることで、他人や社会に影響を与えることはあるかもしれないけれど、それは結果であり目的ではない。
っていう話をあんまりおおっぴらに言うと、アイツは冷たいとか自分のことしか考えないとか言われちゃうんだけど、でも実際そうなんで書きました。
ジム・コリンズ(著), ビル・ラジアー(著), 土方 奈美(翻訳)